我思う、故に我在り
好きな事をして、好きな音楽を聴いて、好きなものを食べる、好きな時に寝る。
そんな夢のような自由な生活を、この時期は過ごしている人が多いのではないだろうか。
今日は、そんな「自由」における概念的な解釈を自分なりにしてみたいと思う。
自由には、「制限のある自由」と「制限のない自由」の2つが存在する。
冒頭で書いたような自由は「制限のない自由」と呼んでいいかもしれない。誰に、何に縛られる事なく、自分の赴くままに行動をする。
さて、それを自由と呼んで良いものかというのが今回記載したい内容だ。
英語にして考えると分かりやすく、私はこう解釈した。
「制限のある自由」 = 「liberty」
「制限のない自由」 = 「freedom」
訳的に言えばどちらも自由なのだが、意味的な面で見れば少し変わってくる。
libertyが能動的な自由、freedomが受動的。そう、真逆の意味になる。
能動的というのは自らがアクションを起こす事、受動的というのは他からアクションを与えられるという事で、制限のない自由は言ってみれば勝手に自分の元にやってきた自由なのだ。
果たしてそこで、人間は気が付かないうちに手に入れた自由を自由として認識する事が出来るのだろうか?
例えば、ある一定のノルマを達成して結果的に得られた休みは「制限のある自由」であり、「ああ、頑張ったなあ。」と自由を実感できるだろう。
ただ、反例として日本国民全員が持っている「表現の自由」についてはどうだろうか。この自由は日本の最高法規である日本国憲法によって定められている。この世に生を受けたその瞬間から与えられる自由なのだ。我々は普段「あ~自由に喋ってるなアハハハハ」などと阿呆みたいな考えをワンクッション挟んでから発言しているだろうか?そんな事はないと思う。
こう考えると、冒頭に書いた自由は受動的な「制限のない自由」であり、人間はそれを自由として認識出来ない、という事になるのではないだろうか。
認識できない概念を自由というのは、哲学者ルネ・デカルトが提唱した、
「我思う、ゆえに我あり」に似通ったものを感じる。
さて、お気付きだろうか。
ここまで色々考察をしてきたが、この時点で私も、この記事を読んでいるあなたも、「制限のない自由」が「自由」である事を証明した、ということになる。
「方法的懐疑」という、これもデカルトが提唱した用語で、
「何か確実なものに到達するまで行われる懐疑」
というものである。
ここまで読み進めて来た過程において、
「制限のない自由は自由なのだろうか?」
という私やあなたの意識があった事は自明だ。
「我思う、ゆえに我あり」に似通った概念とすると、そのように考える事自体が、「制限のない自由」=「自由」だと証明しているのだ。
学生の皆さん、残り少ない自由を楽しみましょう。